昭和41年07月06日 夜の御理解
人間は有難いとほんとに嬉しいと思う時には、もうそろばんなんかはある程度度外視するもんだと。ほんとにおかげを受けなければなりません。ほんとにおかげを受けなければ、そうしたほんとに喜び一杯での御用もできません。今朝からも私、皆さんにも申しました、あの夕べ妹と長女が、三輪車を押してあげたり、(やま)の世話をしてあげたり、ガソリンをおこしてあげたりして、もうそれがよっぽど嬉しかったじゃ、夕べ申しておりましたが、八女の方だという事だったんですけど。
今朝わざわざかどうか知らんけれども、あそこにお供えしておられるあの大きなスイカをさげてから今日、今朝からお礼に見えておられます、ね。それこそまぁ、今あんなスイカあんな大きなのだったら随分値段もしましょう、ね。もうほんとにもうそれこそ久留米までひょっとして見えたのかもしれませんよね。けども、( ? )久留米からここまで、それこそわざわざお礼にでてきておられます、ね。もうそこにはですね、あのそろばんなんか全然持っちゃなか、ね。
夕べそれこそ電話を借った借り賃に、まあ百円置いていかれたと言う事ですが、まぁそれでもう十分いわばでけとると。けどもその困っておる難儀をしておる時にされる親切とは、もうそんなに嬉しんです、ね。それをもう返礼としてする時には、もうそこにそろばんじゃない。もう馬鹿らしいとか損するとか得するとかいう事はもう問題じゃない。私はこの辺の所を思う時にです、本当に人が困っておる時には、それをまぁ調子の良い時にはちやほや言うけれども、もう難儀しておる時にはもう見向きもせん。
冷たくあしらうと言った様なことが、いかにいけないことかと言う事が分りますね。これはあの人間に対してだれでもそうなんですからね。もうほんとに困っておられる時に、親身のいわば親切を施すと言う事は有難い。日頃信心になっておかなければならんといことが分かりますということと同時にです、有難いと嬉しいと思うたらです、もう損得じゃないということですね。わざわざひょっとしたらわざわざかもしれません。八女の方だったということですけども。
八女からここまで、(あぁ昨日)あの大きなスイカを下げてから、お礼にでてきておられる。ここからなんか色々こう分からせて頂く事がございますですね。私共がほんとにこのおかげを頂きますね。おかげを受けますとほんとに有頂天になって有難いと思うたり、また御用もまた苦になりません。よく似ております。ところが信心させて頂きますとです、もういっちょ向こうの方が分かるようにならなければいけない。もう一つ向こうの神様のお心が分かるようにならなければいけん、ね。
おかげを形の上にはほんとに、神様が親切にして下さる、もっといわゆるその親心というか親身というか、ね。親なればこそと親が例えば子供を千尋の谷に突き落とすと言った様な愛情の中にもです、親の親切というものを分からせて頂ける様になった時が、信心も一人前じゃなかろうかとこう思います。いわゆる、あれもおかげこれもおかげと分かる時なのである。本気で神様がこうして私をきとうて下さる。こうして私に分からせて下さろうとする、そこにこの喜びに感激してですたい、その御用が有難い、というな事になってきた時が、信心はほんなもんじゃろうかと思うですね。
どうぞ。